公開: 2023年9月6日
更新: 2023年9月6日
日本社会において政治が宗教を利用するようになったのは、古い時代からです。飛鳥時代に朝鮮半島から仏教が伝来して以来、日本を統治していた天皇家は、当時、新しい宗教であった仏教を積極的に日本社会に取り入れることを勧めました。この流れを積極的に利用しようとしたのが、政治の舞台では新興勢力であった蘇我氏でした。
渡来系の人々の知的な能力を活用する立場にあった蘇我氏と、聖徳太子として知られている厩の皇子は、それまでの日本の伝統的な神道を捨てて、大陸から伝来した仏教と寺社建築を利用して、社会を統治するやり方が、より良い方法であると考え、ブッダの教えを広め、寺社を全国に建設する方針を進める方針に転換しました。
この新しい政治方針の採用によって、日本社会は急速に仏教を取り入れてゆきました。特に、貴族社会では、地獄の概念が広く定着し、人々も浄土を理想とするようになりました。平安時代になると、貴族の人々は、浄土を模した宇治の平等院のような建築物を建設するようになりました。平安時代の末期になると、平氏のような武士たちも、仏教に傾倒するようになりました。
これは、仏教の教えが封建社会の秩序を維持するために、役立つと考えられたからです。日本社会では。昔から、親や祖先を敬い、身分の高い人々の命に従い、徒(いたずら)に社会の秩序を乱さないように生き、困っている人々を助けることも重視されます。これは、朝廷だけでなく、社会を統治する高い階層の人々には、都合の良い教えでした。
似たような現象は、古代や中世のヨーロッパ社会にも見られますが、社会が進展するに従い、ヨーロッパの社会では、宗教と政治が少しずつ分離され、社会を統治する政治と、個人の倫理観を規定する宗教(特にキリスト教)が、別々の価値観として人々の生き方の基礎となってゆきました。日本社会では、このような政治と宗教の明確な分断が起きませんでした。